私の趣味シリーズ 『硬貨収集』 ①

私の趣味の『 硬貨収集 』でのエピソードの一部をご紹介します。

私が硬貨に興味を持ちましたのは、やはり記念硬貨が発行された時でしょうか。

戦後、記念硬貨の第一号は「 東京オリンピック 」の1.000円銀貨です。
それまでの硬貨で一番大きい物は旧50円硬貨(直径が25㎜)でしたが、オリンピック記念銀貨は35㎜で20gもあり、とても流通硬貨でなく交換した人の2/3程度の人は「タンスの肥やし」になっていると思います。

この時の発行枚数は、1.000円が1.500万枚でした。同時に100円の記念銀貨も8.000万枚も発行されました。


まあ、この頃は貨幣価値もいま以上にあり、私も当時は非常に若かったので「 とても! 」1.000円も出して交換出来る身分ではありませんでした。
せめて、100円の記念銀貨程度でした。


その後、万博、札幌オリンピック、沖縄博、つくば博、と記念硬貨が発行されて、
きらめつけは昭和61年の「あの!10万円の金貨」でした。

直径30㎜(3㎝)金100%で20gの金貨で、発行枚数は1.000万枚でした。
この時に「1万円の銀貨」も同数発行されました。

この頃は、私も多少の余裕もあり交換に参加しました。
この時の記念硬貨の交換は、実は「 大変な事態 」でした。

と言うのは、他の記念硬貨の様に市中の金融機関で並んでの交換でなく、まず指定された日に金融機関で並んで一人1枚の「抽選券」をもらいます。

その抽選券には、00〜09までの番号が記載されており、後日の当選番号を待ちます。
上の写真は「09」ですね。この抽選券も大蔵省印刷局の印刷でしたので立派な物でした。
そして何番か忘れましたが当選番号が発表されました。
00〜09の10枚で1枚の確率でした。


この為に抽選券をもらう為に並び00〜09までを集めるのです。
当然に10回並んで00〜09まで揃う訳がないので、並んだ仲間と番号交換をするという具合です。

しかも、1万円銀貨も同様に行いますので、この時が一番大変でした。
まあ、「 半日有給休暇 」になったと思います。
何枚の抽選券が集まったかは忘れましたが、結局、後日の当選券は確か各3枚あったと思います。


それからが、また大変でした。 金策に!!
つまり、30万+3万を用意しなければなりませんでした。
そして、その抽選券に印刷されていた金融機関での交換となりました。
結局の所、各1枚は親に押し売りをし各3枚の交換をしました。


所が、この最初の金貨の発行時に「 あの!ニセ金貨 」騒動になりました。


それは、そうですよね! だって、金の重さからの金の価値は当時で3万円前後でしたし!!つまり、加工費を乗せても5万円程度なのに、国民に10万で交換させ半分は国庫へなんて考えるから失敗したのです。

海外のニセ金貨鋳造グループが暗躍し、相当数のニセ金貨 (但し、金の重さは同じ) を物流させたのですから!


この為に、この事件が発覚後に「 逆交換 」が多くなり市中に出た1.000万枚の半数以上?は国へ戻り「 金の延べ棒 」になったと聞いています。


翌年にも10万円の金貨が発行されたが、こんな不人気の時でしたので100万枚の発行しかありませんでした。


そんなに苦労をして手に入れた「 金貨 」も今は親の分と私の1セットは、国へ戻しました。原価の10万円で!


この様に『 ニセ金貨騒動 』でミソを付けたので、その後からの高価な記念硬貨は「 プレミアム記念硬貨 」へ変わりました。


プレミアム記念硬貨 」とは、貨幣価値は額面ですが、発行時の交換時にその価格より高くして交換しています。
例として、「 愛知万博1万円プルーフ金貨 」額面1万円が4万円という具合になりました。



所で、今月の23日に「 南極地域観測50周年記念5百円ニッケル黄銅貨幣 」が市中金融機関で交換があります。


ご興味のある方は、金融機関でお並び下さい。
結構な数量の発行枚数と思いますので、お一人様数枚は可能でしょう!?
もち、私も交換をしますが。。。

それでは、次回をお楽しみに